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河井継之助が西方遊学の際に記した旅日記。縦約8センチ、横約17センチの横つづりの冊子で、本文には美濃紙を使用している。
継之助は他に著書がないため、継之助の唯一の著書である。
日記は1859年(安政6年)6月7日の江戸出発から始まり、12月22日に松山で終えている。
また、この冊子は後ろから開けば、遊学中に読んだ本のメモや、金銭出納についてのメモが書かれている。
旅の出来事を書き記すという目的以外に、長岡にいる父親に旅の経過を知らせる土産話としても書かれている。気の向くままにつづったため、当て字が多く読解は難解であるが、日々の出来事について思うままに書き記してある。旅の途中での出来事や継之助の心情などが飾ることなくつづられていることから、河井継之助の人物像までも読み取れる貴重な資料。 |
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継之助は生涯で2回の遊学をしており、塵壺を記したのは2回目の遊学。
通常、遊学は公費で行われていたが、継之助の場合は私費での遊学。金銭・時間を限られた中での遊学であった。
長岡藩の富国強兵、財政建て直しを目指していた継之助は、備中松山藩の財政を立て直した山田方谷にその術を学ぶ為に遊学した。道中では、黒船の来航を目にしたり、各地方の情勢をじかに見るなど、見識を広げている。方谷の元では、王文成、李忠定等の文集、陸宣王の秦議類の読書や、方谷との談論で多くのことを学んだ。継之助は方谷に大変感謝し、のちに「天下の英雄方谷先生に及ぶのもなし」と評している。 |
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