文政10年(1827年)1月1日に、長岡城下長町に生まれる。継之助は通称で、名前は秋義、号は蒼竜窟。幼い頃は、腕白もので負けず嫌いであった。
17歳から陽明学を学び、鶏を割いて王陽明を祀り、長岡藩を担う名臣になろうと決意したといわれている。26歳の時に江戸へ遊学に行き、斉藤拙堂、古賀茶渓、塩谷宕陰のもとで、漢・洋学を学んだ。
31歳で家督を相続した後、外様吟味役などの役職を務め、32歳で再び遊学。江戸で再び古賀茶渓の元で学ぶが、陽明学者である山田方谷に師事するため、1859年6月7日に備中松山藩へ向けて江戸を発つ。この西方遊学の様子は、日記「塵壺」に記されている。
帰藩後、郡奉行、町奉行、御年寄役(奉行・家老)、家老上席などを歴任の後、軍事総督の任につく。
1868年の5月2日小千谷談判の決裂で起こった北越戊辰戦争にて、軍事総督として長岡藩軍を指揮。数々の優秀な作戦を遂行したため、西軍は規模で劣る長岡藩軍に苦戦することとなる。長岡城が西軍の手に渡った折に八丁沖潜行作戦を実行し、長岡城奪還に成功するが。その後、再び長岡城は落城。只見方面へ敗走したが、八丁沖潜行作戦時に負った左足の傷がもとで、塩沢にて42歳の生涯を終える。
結果として継之助は戦死し、北越戊辰戦争は敗戦。賊軍の汚名を着せられたが、北越の英雄として語られている。 |
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