元号 |
西暦 |
小林虎三郎関係事項 |
小林家の事項 |
藩と国家の事項 |
文政11戊子 |
1828 |
8月18日、小林又兵衛親真(号、誠斎)、久の三男として生まれる。 |
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文政12己丑 |
1829 |
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父、小林又兵衛藩校崇徳館の助教となる。 |
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天保7丙申 |
1836 |
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父、小林又兵衛新潟町奉行となる。 |
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天保9戊戌 |
1838 |
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閏4月、佐久間象山、越後に北遊、新潟で、新潟町奉行であった小林又兵衛と出会う。 |
天保14癸卯 |
1843 |
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6月、長岡藩領、新潟浜村600石幕府によって上知となる。 |
弘化2乙巳 |
1845 |
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12月23日末弟、小林雄七郎生まれる。 |
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嘉永3庚戌 |
1850 |
藩主の命により、江戸に遊学。はじめ、萩原緑野の門に学ぶ。 |
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嘉永4辛亥 |
1851 |
佐久間象山の門に入る(24歳)。蘭学を修め、羽倉簡堂、斎藤拙堂、勝海舟等と交流。松陰吉田寅次郎とともに象山門下の「二虎」と称せられる。 |
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佐久間象山、江戸の深川、木挽町に塾を開く。 |
嘉永6癸丑 |
1853 |
3月、佐久間象山が江戸の深川木挽町にいたころの炮術の門弟名簿「嘉永6年、癸丑3月、炮術門人人名簿」には小林虎三郎の名がみえる。ほかに川島鋭次郎の名もみえる。 |
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6月3日、ペリー来航。 |
安政元甲寅 |
1854 |
3月、下田開港に反対して神奈川開港を唱え、いれられず、長岡に帰る。 |
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1月12日、ペリー再度来日。 |
安政2乙卯 |
1855 |
帰藩、謹慎を命じられる。 |
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安政6己未 |
1859 |
春、「興学私議」を著わす。 |
2月26日、父小林又兵衛親真死去。 |
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文久3癸亥 |
1863 |
8月、佐久間象山、朝廷からの徴召の内意を伝えられたとき、一子、恪二郎の教育のことを虎三郎に依頼する。 |
11月20日、長町の小林家から出火、全焼する。 |
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元治元甲子 |
1864 |
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佐久間象山、暗殺される。 |
慶応2丙寅 |
1866 |
「藩兵制改革意見書」を出す。藩の兵制改革の意見書として採用される。 |
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(慶応4)明治元戊辰 |
1868 |
戊辰戦争で、長岡藩、新政府軍に敗北し、虎三郎藩主を追って会津から仙台に逃れる。 |
12月末に小林虎三郎、三島億二郎宛の書簡で長岡再興の理念を披瀝。 |
12月22日、長岡藩、罪を許され、牧野忠毅に2万4000石を朝廷から下付される。 |
明治2己巳 |
1869 |
5月、藩庁として議政局をおき、虎三郎文武総督となる。「藩治職制」の立案にあたる。11月8日、牧野頼母、三島億二郎とともに、大参事となる(入札による)。 |
2月26日、母久、死去。 |
5月1日、国漢学校のはじまりとなる学校を四郎丸の昌福寺に開校。
6月17日、長岡藩、版籍奉還。
8月、長岡藩職制改革。 |
明治3庚午 |
1870 |
5月に支藩三根山藩から贈られた100俵の救援米を、国漢学校が6月15日に坂之上27番地に開校した際の整備資金にあてる。10月、長岡藩大参事免官となる。11月、柏崎県庁から「学校演武場掛り」を命じられる。 |
春、弟、雄七郎、慶応義塾に入る。 |
10月、長岡藩廃藩、長岡は柏崎県の管轄下に入る。 |
明治4辛未 |
1871 |
7月、柏崎県庁から病気療養を命じられる。このころ、「病翁」と改名する(7月17日許可)。8月、東京に出、土佐に旅をする。 |
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8月、国漢学校を柏崎県長岡分黌と改称。 |
明治5壬申 |
1872 |
土佐から東京に帰り、神田に住み、後、向島に移る。 |
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柏崎県長岡分黌を長岡町組学校と合併。11月23日、長岡洋学校開校。 |
明治6癸酉 |
1873 |
4月、『小学国史』12巻を出版。 |
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明治7申戌 |
1874 |
7月『飜刊 徳国学校論略』を出版。 |
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8月、長岡町組学校と分離して、新潟県第三中学区、公立二十番小学阪之上校発足。 |
明治10丁丑 |
1877 |
7月、伊香保温泉に静養する。8月24日夕、東京、向島の弟、雄七郎の家で死去(50歳)。 |
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