二、求志洞遺稿の序
嗚呼、此れ亡友小林雙松君の遺文なり。君歿するの十七年、外甥小金井二子来り請ひて曰く、「伯舅子無し、叔雄七郎に依る。今や叔も亦亡し。其の文筐底に埋没して、未だ世に見れず。甥等窃かに之を悲しむ。而して伯舅を知る者は、先生に若くは莫し。請ふ先生為に論定して之を伝へよ。」と。
余嘗て謂(おも)へらく、君は明体達用の学を講じ、諸(これ)を一藩に施す。必ずしも文詩を待って世に伝はらず。但(ただ)資性多病、未だ其の用を尽くさず、規画施設封内に止まり、明治の鴻業を翼賛するに及ばず。轗軻にして以て歿す。是れ洵(まこと)に悲しむべきなり、と。
君志識宏遠、少壮にして吉田松陰(蔭)と同(とも)に佐久間象山に師事す。松陰(蔭)米艦に投じ、事敗れて逮に就き、象山之に坐して幽因せらる。君慨然として献言す。因って亦其の藩長岡に禁錮せられ、備(つぶさ)に艱厄を極む。
明治の中興、藩侯王師に抗ず。君諌むれども聴かれず。東北鎮定するに及んで、起(た)ちて大参事と為り、瘡痍を恤(あはれ)み、遣孤を撫し、業を勧め学を興す。多く病蓐に在りて事を視る。朝廷其の能を知り、将に之を用せんとすれども、病を移(つた)へて出でず。廃藩置県に及び、跡を講学に(しりぞ)く。会々(たまたま)弟雄七郎工部省出仕と為る。君乃ち居を東京に移す。因って余と文酒驩(かうくゎん)す。恂恂乎として世と相関せざるが若し。而して談偶々(たまたま)国家の利病(りへい)、当世の得失、五洲邦国の盛衰する所以(ゆゑん)、政教兵制の沿革する所以に及べば、則ち意気軒昂、確乎として定見有り。是れ其の素(もと)講ずる所、胸中に磅鬱積(うっせき)し、事業に発するを得ずして、文章に発せしなり。 |
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