六、小林寒翠翁略伝
翁、名は虎、字は炳文、雙松又は寒翠を号す。通称虎三郎、晩に病翁と号す。越後の国長岡の人なり。其の系(けい)上州赤堀城主赤堀五郎兵衛より出づ。数世の後、小林意哲なるもの有り。故ありて牧野侯に事ふ。翁は其の後裔為(た)り。
は小林又兵衛と曰ふ。誠斎又は巌松と号す。禄百石を食む。騎馬の士為り。学を好んで該博、又詩文を善くす。人と為り英邁不群、衆の畏敬する所と為る。天保年間、新潟町奉行を勤む。偶々蒲原郡村民の暴挙に会ふ。又兵衛単身槍を提げ、馬を馳せて到り、直に魁首を説諭し、遂に之を鎮撫す。衆皆其胆力に驚く。後(のち)世子の傅と為り、江戸の邸に移る。居ること歳余。職を罷めて国に帰る。是より先、同藩栂野(とがの)與次兵衛の女を娶り、七男二女を生む。翁は其の三男なり。
文政十一年戊子長岡に生まる。天資穎敏、才思衆に超ゆ。幼より厳の庭訓を受け、後、藩儒高野某に就いて学ぶ。又、山田某の教を受く。刻励勉苦、嶄然として頭角を見はす。衆僉(みな)常人を以て対せず。時に年十七八、藩主命じて崇徳館の助教為らしむ。館は長岡藩校なり。
当時藩中朱子学古学両派あり。古学は蓋し伊藤氏より伝ふる所にして、専ら経を講ずるを以て主と為し、他書を渉猟するを禁ず。翁本古学派の門に在り。窃に学風の固陋なるを慨嘆し、独り経史の外博く諸子百家の書を攻め、其の良説を取って以て己が有と為す。是(ここ)を以て古学の徒、往往其の雑駁を誹議す。翁復(また)顧みざるなり。然れども一藩の学事(がくじ)大いに振ひ、互に切(功)瑳を競ふ。俊才の輩出すること、是の時を以て盛なりと為す。而して輪講討議の席に在りて、詩文を精解し諸説を引証するに至っては、年齢翁より長ずる者と雖も、敢へて其の右に出づる者無し。才学の長ずる、以て知る可きのみ。
嘉永三年庚戌、藩主の命を以て、学を江戸に修む。初め萩原某の門に入り、後、佐久間象山に就いて学び、傍ら和蘭の書を攻む。是より前、誠斎職を新潟に奉ずるの日、象山に邂逅し、一面旧の如く情甚だ厚し。且、象山の博識多通にして議論卓越せるに服し、以為(おも)へらく「児を託して教を受くる者は、世独り斯の人あるのみ。」と。象山之を許す。是(ここ)を以て象山に随従せしなり。翁象山の門に在るや、日夜勉励し、専ら窮理の学を修め、経世の要を審かにし、古今の治乱を究め、天下の機変を考ふ。又、当時の名流、羽倉簡堂(かんだう)・ |
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