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ゆかりの地案内

長岡駅(大手口)
長岡駅(大手口)
かつてこの場所には、長岡城の本丸が存在していたが、長岡は戊辰戦争で壊滅状態になり、長岡城も廃城となった。
現在、長岡駅大手口では長岡の観光案内パネルに並んで、長岡を代表する人物についての紹介パネルが展示されている。
住所:長岡市城内町2丁目

長岡駅(大手口)
長岡城二の丸跡
長岡市厚生会館の大手通に面した場所にこの碑が立っている。
長岡城は堀直竒が築城に着手、その後、牧野忠成が工事を継承して完成させた。長岡城は、四方を川や深田、沼で囲まれた土地に建設されていた。これは戦略的に見て絶好の位置。別名「八文字構え浮島城」と呼ばれている。
住所:長岡市大手通1-4-10

長岡駅(大手口)
榎峠古戦場
長岡戊辰戦争開戦直後に、激戦地となった。
東を山脈、西を信濃川で守られている長岡にとって、南方にある榎峠は長岡藩攻防のための要所であった。開戦時、榎峠は西軍が占領していたが、東軍が朝日山や鬼倉山を奪回後、榎峠の西軍を背後から攻める形でここを奪回した。
住所:長岡市妙見町

長岡駅(大手口)
開戦決意の碑
小千谷会談の決裂後、この地で長岡戊辰戦争開戦を決意したと言われている。
河井継之助は、戦争を反対する川島奥次郎に「和するとするならば、我を切り、三万両を添えて西軍本営に差し出せ」と論じた。気迫に負けた川島億次郎は開戦を受け入れた。 人望と才能を持つ川島が河井継之助の味方に付いたため、藩論を統一させることができた。
住所:長岡市前島町前島神社

長岡駅(大手口)
西軍上陸の地
西軍が長岡城を襲撃する際に、信濃川を渡り、ここの上陸したと伝えられている。
西軍は霧に乗じて信濃川を渡り、長岡城に奇襲攻撃をかけた。この戦いで長岡城は西軍におさえられ、東軍は栃尾方面へ敗走した。
住所:長岡市中島1丁目

(長岡駅周辺で昼食、土産)


長岡駅(大手口)
河井継之助邸跡
この石碑の建つ長町は、藩士の家中屋敷があった場所。庭には河井継之助の号である「蒼竜窟」の由来となったと言われる2本の松があった。
住所:長岡市長町1丁目

長岡駅(大手口)
大黒古戦場
戊辰戦争最大の激戦地。長岡、会津、米沢らの奥羽越同盟軍と薩摩、長州らの新政府軍が幾度も激戦をかわした。戦いがあった時期は雨が多く、もともと泥田(深田)であった。そのため、大黒水門の争奪戦もあった。
現在は、大黒古戦場ポケットパークに当時を伝える石碑が建っている。
住所:長岡市大黒町

長岡駅(大手口)
八丁沖古戦場
かつて八丁沖は大湿地帯で「魔蛇が住む」と恐れられる場所であった。
西軍に長岡城を落とされた東軍は、この大湿地帯から長岡城奪還を仕掛けた。西軍はよもやここから東軍が攻めてくるとは思っておらず、配備された兵も微々たるものであった。この弱点を河井継之助は見事に突き、長岡城奪還を成功させた。
住所:長岡市富島町

長岡駅(大手口)
悠久山
山頂付近に河井継之助の頌徳碑「故長岡藩総督・河井君碑」が建てられている。刻まれた文は、河井継之助が松山藩に遊学した際に親交があった山田方谷の高弟、三島中州によるもの。この碑は、当初長岡城本丸跡に立てられたが、本丸跡に長岡駅が建設されたため、悠久山に移され、現在にいたっている。
住所:長岡市悠久町

長岡駅(東口)


参考文献
「塵壺 河井継之助日記」安藤英男 校注 平凡社
「歴史読本 河井継之助 薩長に挑んだ男」 新人物往来社
「河井継之助の生涯」 安藤英男 著 新人物往来社
「河井継之助写真集」 安藤英男 著 新人物往来社
「河井継之助」 稲川明雄 著 恒文社
「長岡城奪還」 稲川明雄 著 恒文社
「長岡城燃ゆ」 稲川明雄 著 恒文社
「歴史群像シリーズ39 会津戦争」 学習研究社
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