求志洞遺稿文乾
越後 小林虎 炳文 著
一、隠憂の賦
陰陽の繆戻に属ひ、の疾に罹(かか)り、衆工の秘薬を(じ)し、甘温に範(のり)して調摂すれども、秋再び閲(けみ)して未だ除かず、空堂に託して潜(せん)蟄す。時序の衰替に値(あ)ひ、愁緒の紆結を増す。百草の彫忰を睨ひ、落木の繽紛を瞰(み)、涼の蕭瑟を聴き、繁霜の凄寒に触れ、心凛々として其れ惻し、意惨々として其れ労煩す。永嘆を而今に発し、追感を昔年に致す。始め余の斯文を学ぶや、束髪の弱歯に于(お)いてす。墳典を誦して服膺し、趨嚮の正軌(せいき)を識(し)る。年既に冠字を踰え、乃ち志を抗(あ)げて奮起し、明師に循(したが)って遨遊し、誘誨(いうくわい)の醇美を奉じ、洙泗の裔流を溯(さかのぼ)り、洛の名理を窺ひ、九流の緒論に渉(わた)り、百代の文史を閲(けみ)し、泰西の記籍に(およ)び、宇宙の全体を知り、慨し憤しして激昂(げつかう)し、余が陋(ろう)を忘れて思はず。将(まさ)に以て弥々強(いよいよつと)めて逾々勤(いよいよつと)め、前脩の鴻儀を追ひ、道徳の蘊奥(うんあう)を窮め、術芸の指帰を探(さぐ)り、体用を通じて以て壱と為し、文武を合して岐(わか)たず、吾が徳を邃厚に養ひ、吾が材を瑰奇に造(いた)し、廊の謨を賛(たす)け、典礼の闕遺(けつゐ)を補ひ、峨々の大を興し、済々の多士を育て、戎政を修めて振作(しんさく)し、猖獗の醜夷(しうい)を膺(う)たんとす。何ぞ天道の淑(よ)からざる。忽(たちま)ちして咎(とがめ)に遘(あ)ひ、還余故山(またよこざん)に反(かへ)る。衡門の陋幽に棲み、漁者に雑って侶(りよ)と為(な)り、樵夫に混ってと為る。厳諭に明師に違(たが)ひ、論を良友に絶ち、曾ち志の釈(と)くる靡(な)きに惑ふ。胡(なん)ぞ学の能く修まるを問はん。歳漸として其れ疾急なること、駒の方(まさ)に走るが若し。として既に吾れ壮(状)齢に躋(のぼ)れり。旧巣に拠って孤守す。独り憂(うれへ)を湛(たた)へて深く懐へば、思ひ乱して紛紜たり。余の困阨其れ曷(な)んぞ傷(や)まん。進取の辰に後るるを悲しみ、皇恩の未だ(むく)いざるを慙ぢ、素志の伸ぶる莫きを恫(いた)む。斯の恨を抱いて窮処すれば、夢寐(むび)と雖も亦焉(いづく)んぞ安んぜん。人生の久しからざるを惟ひ、遅暮の将に至らんとするをり、世を没して聞ゆる無きを痛む。憤(いきどほ)りを発して以て志を騁(は)せんと欲すれども、疾(やまひ)、纏(纒)綿して固く結び、形、枯槁してす。奚(なん)ぞ密勿を之れ得べけん。徒らに益々軫み滋々(ますます)悸れ、耿として中夜に眠られず、灯光のに対す。旻天を仰いで大息すれば、涙瀾として以て雨集し、中、爍として其れ禁ずる莫し。孰(たれ)(敦)か云に、余の憂悒を察せんや。古桐を撫(ぶ)して、念(おもひ)を弛(の)ぶれば、声紛錯して協はず。
象山先生曰はく、「儘く佳なり。」と。 |
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注釈
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