二、興学私議
中国、虜の侮を受くるや久し。昔嘗て安きに狎れて労を憚り、之を禦ぐ所以の方を求めず。 癸丑 墨夷の事あるに及んで、然る後に、祖宗の故事の、以て当時を済(すく)ふ無く、変通 更革の以て已むべからざるを知る。是に於て一旦令を発して、水陸の兵制・ 堡台の備・ 皇 巨鑑より、以て 凡百の器械の細に至るまで、皆則を 荷蘭に取る。
既にして其の人を招致し、舟楫を操(あやつ)り水兵を練るの法を受け、又武学を置き、 蕃書院を建て、之が教師を設けて以て多士を育す。凡そ彼の諸学科は、皆其の力の及ぶ所に随って、之を治むるを得たり。蓋し其の意は全く彼の長ずる所を取って、我が短き所を補ひ、以て我が勢を振ふに在り。而して一毫も固執の私を其の間に雑へざるなり。宜しく其の兵制は整ひ、堡台は厳に、 舶は悉く具はり、器械は尽く利に、既に以て虜の侮を禦ぐに足って、而して人材日に長じ、国 駸々乎として彊((強に同じ))く趨くべし。然り而して、其の効未だ顕れず。虜、其の是の如きを見るや、滋々(ますます)以て 驕肆にして、我は唯々 惴々焉として一物の、其の欲に適(かな)はずして、或は其の怒を激せんことを懼るるのみ。此れ其の故何ぞや。
患は学、上(かみ)に在らずして、文武百官率(おほむ)ね皆学ばず、其の職虚たるに在るなり。古は治教一にして学、上(かみ)に在り。上の人其の学を以て、天下の事を治め、天下の人を教ふ。 唐虞の際、人材最も盛なり。此の時に当って、天下の水土に習ふ者は 禹に若くはなし。而して禹 司空たり。 稷を暁(さと)る者は 稷に若くはなし。而して稷((人名)) 后稷たり。 五教に明らかなる者は 契に若くはなし。而して契 司徒たり。刑法に通ずる者は 皐陶に若くはなし。而して皐陶 士たり。工を知る者は 垂に若くはなし。而して垂 共工たり。草木鳥獣の性に審らかなる者は 益に若くはなし。而して益 虞たり。礼楽に明らかなる者は 伯夷と とに若くはなし。而して伯夷 秩宗たり。 典楽たり。其の諸官の長、皆天下の選を極むること此の如し。故に其の 佐属も、亦皆其の器に当る。而して治教の事一として挙らざるなし。是(ここ)を以て帝舜の世無為にして治る。周公官制を定めて、 六 職を分つも、其の治教を一にすること固(もと)より同じ。而して其の佐属大小 係聯の意、学を設け 士を取るの法は、則ち其の詳を加ふ。故に盛周の治、古に於て光あり。降って漢唐宋明に至っては、法皆古にあらず、治教必ずしも一ならずと雖も、然も、上の官人率ね之を取るに学を以てし、而して官にある者学ばざること鮮(すくな)し。是(ここ)を以て其の間、往往観るべき者あり。
中国上世は かなり。中古以来隋唐に通 し、乃ち大いに制度を講ず。 二官 八省 六衛、内外の文武の諸官是に於てか始めて定る。而して 京師より以て六十の州に至るまで、又皆学を建て、 貢挙の法を設け、 進士 明経 秀才 明法の科、以て天下の士を取る。而して親王諸王公 世家の子弟、固より皆学ばざるなし。是(ここ)を以て当時の公 率ね治体に達し、世務に練(ね)れ、国史の 纂、 律令格式の撰に至るまで、 |
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