彼の西洋の諸蕃国富兵強く、威八溟に震ふ。其の自る所を原ぬるに、未だ始め凡百の学芸皆其の妙を極め、物を開き務を成すの、周ねからざる所無きに在らずんばあらず。而して斯の学、実に其の一に居る。
然らば則ち今我、彼の長を取り、我の短を補ひ、以て我が勢を張らんと欲せば、斯の学の固より亦宜しく興すべき所に在っては、何ぞ必ずしも智者を待って之を知らん。然り而して朝野の間未だ事に斯に従ふ者有るを聞かず。吾則ち焉を憾む。
ちかごろ偶々荷蘭人の著す所の重学訓蒙なる者を獲て、之を読むに、其の事鄙細に似たりと雖も、民生の日用に実に、殊に切要と為す。因って自ら揣らず、訳すに国語を以てし、以て夫(か)の寒郷の晩生の斯の学に志ありて、未だ洋文に習はざる者に示し、之をして其の端緒を窮ふを得しむ。
鳴呼、本邦と漢土と亦皆斯の学無きに非ず。但、其の術太だ粗に、其の器太だにして、遠く西洋の精、且つ備はるに及ばず。故に未だ能く大いに其の利を受くる能はざるのみ。
今余が訳述する所、拙陋と曰ふと雖も、然れども、上にしては政に従ひ官に服するの人、下にしては豪農鉅商の徒、或は得て之を読まば、以て彼の国の重学の精備は、本邦漢土の未だ夢にも見ざる所なるを知ることに於て、家国民生に於ける裨益極めて大ならん。遂に其の理を推尋し、其の器を購造して、これを実事に施さば、則ち富強の本、乃ち其の一を得ん。豈小補と曰はんや。是則ち余も亦望む無きにあらずと云(い)ふ。
慶応紀元乙丑、仲秋朔、雙松、小林虎、撰並書。
六、重学訓蒙の後序
水碾車なる者は、西洋重学器の一なり。偶々本邦に行はれて、我が長岡城東山麓の諸村、亦往々これ有り。城下の市集、賈戸無慮二千、中戸以下の婦女、率ね索を作るを以て業と為す。春、雪融け日暄きをって始め、秋、陽衰へ雨多きにんで止む。其の資する所の麦粉、二十年前に在っては、則ち皆夾巷貧婦の磨轢に出づ。期既に至れば、黎明にして起き、石碾を旋転し、手少しくも駐めず。油に継ぎ、以て亥夜に至る。而も一人一日の出す所、数升に過ぎず、此の若き者、蓋し数十百人ならん。
其の後、城東山麓の諸村、水碾車を設くること凡そ十数所。専ら麦粉を作る。一碾車毎に老夫若しくは老嫗の耕織に堪へざる者一人をして之を管せしむるに、一日の出す所、斗石を以て数ふ。人、担ひ、馬、駄し、これを城下の市集に輸(いた)す。絡繹として絶えず。索を作る者、日に多きを加ふと雖も、亦未だ曾(かつ)て其の資の給せざるを患へず。
而も彼の夾巷の貧婦、又他の工を作して以て自ら供し、其の生を失ふ者あること無し。蓋し前日は数十百人、之を為してかに足り、今日は十数人、之に代って余り有り。而して其の数十百人、遂に他の工を作して以て自ら供せば、則ち今日工を作す者、之を前日に視ふれば、多きこと数十百人にして、他物の生ずるも随って多し。
夫れ、一器の偶々行はるる、其の制の未だ備らず、其の施の未だ普からざるを以て、猶且つ此くの如し。果して衆器をして悉く行はれ、其の制をして能く備はり、
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