独り西北のみ 開豁にして、絶壁に臨む。是に由りて以て瞰れば、両山西東に峙ち、 逶 として南よりして北す。嶺数里に属し、 屏障を列ぬるが若し。而して 信水其の間に流れ、 連蜷として起伏し、 駭浪白を噴き、 皚々乎として 素練を くが若し。其の左右の村落十数、崖に俯する者あり、山に拠る者あり、樹に掩はれて全くは現れざる者あり。 参伍錯雑、 着意して排置する者の若し。凡そ 妻在一峡の形勢、皆 目睫の下に在り。
時維れ秋季、木葉霜に染まり、紅黄爛漫として、 遠邇相映ず。惟々松杉 鬱葱として時を以て其の色を易へず。又其の間に 点綴して以て相倶に山川の景を飾る。而して農の 畚を荷うて橋を渡り、馬の柴を担うて山を下ると、夫の枯樹の 槎 たる、瀑泉の遠崖に懸る、炊煙の林を隔てて起ると、以て雲を掠むるの鳥、 隴に吠ゆるの犬に及ぶまで又皆巧を呈し枝を致して以て其の趣を助け其の色を増さざる莫し。
余是に於いて楽しむこと甚し。杯を把って満酌し 陶然として酔ひ、 頽然として踞し、 歌呼鳴々として以て起る。夕陽山に在り、鐘声遠く伝はり、晩鴉閃々として飛ぶに及んでも、猶未だ帰るを思はざるなり。
既に帰り、岡の名を問ふ。曰く、「有ること無し。」と。余曰く、「岡の勝、斯くの若きを以て、未だ佳名の以て之を表はす有らざるは、豈憾に非ずや。」と。楚香曰く、「然り。請ふ之に命ぜよ。」と。余曰く、「三松の怪特なる、 隠然として夫の岡を占むる者の若し。則ち之に命じて蒼竜岡と曰ふ。亦可ならずや。」と。楚香曰く、「善い夫(かな)。既に已(巳)に之に命ず。亦盍んぞ焉を記せざる。」と。是に於いてか書す。


一六、 龍徳公手筆 竜の図の記
人の腎不肖、類を以て親まざるなし。故に上は王公大人より、下は 布衣諸生窮居の士に至るまで、其の親しむ所を観れば、則ち其の腎不肖、情を遁るる莫し。
我が 先太公龍徳公、臣民に君臨すること六十余年。時方に歴世 豊阜の後を承け、事皆 成規に従ひ、清静自ら修め、痛く 浮躁を抑へ、 簸瀾を平地に為して以て衆庶を労せず。故に群臣唯々其の 簡重体あるを知るのみ。唯々其の 含容窮り無きを知るのみ。然り而して、内の 蘊む所、之を能く測る莫きなり。
然れども嘗て窃にこれを故老に聞く。公当世の諸侯太夫と はること多し。而して其の最も親しむ所の者は、蓋し故 少将源公定信と為すと。夫れ少将勤倹 恪翼の行は、布衣の諸生も猶且之を信ず。而して宏大 魁の業は、 黄童 叟の称して措かざる所、固に一代の偉人なり。然り而して、公之と最も親しむこと、前後数十年、 渝る所あること莫くして、以て其の世を終ふ。則ち其の才の美、徳の 崇、大いに人に過ぐる者ありて、群臣の愚、之を能く測る莫きは、固より宜しく然るべきなり。
公能く衆芸を 綜ぶ。書画に至っては、又皆其の妙を極む。其の書、 筆画 端重、温厚 慈祥の気、 藹然として 楮墨の間に る。其の画、最も 竜を好む。墨筆を用ひて 呵成す。 蜿 夭矯、雲を興し、雨を行(や)るの勢あり。 |
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注釈
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