臣虎の家蔵する所の双竜昇天の図の若きは、乃ち是のみ。
夫れ公の、徳容の盛なる、威儀の厳なる、臣虎、生るることの晩くして、仰瞻するを獲ず、常に以て憾と為す。然れども此に就いて諦観すれば、其れ亦以て其の髣髴を想見するに足らざらんや。
万延元年歳次庚申の夏四月。臣小林虎稽首拝手謹言。
一七、源筑州画像の記
筑後の守源公、諱は君美、字は在中、江都の人なり。儒学を以て褐を文廟潜邸の日に釈く。文廟儲嗣と為る。公従って而して大朝に仕ふ。文廟即位の後、従五位下に叙せられ、筑後守に任ず。享保十年五月十九日に卒す。年六十九。
公、天資英異、学古今を貫く。天下を治むるの大経大法と、礼楽刑政の理、変通弛張の故とより、以て夫の当世の利病に至るまで、皆其の源を探(深)り、其の委を窮めざる靡し。
文廟始めて立つ。時方に昇平百年にして、制度未だ備らず。而して又元禄罷耗の後を承け、文廟励精治を図り、意専ら其の闕を補ひ其の弊を救ふに在り。凡そ為さんと欲する所は、皆これを公に謀る。公も亦心を竭して籌策し、能く肯綮に中つ。文廟大臣の意、毎に焉を踰ゆる能はず。故に礼儀を講じ、外国にはり、財用を理(をさ)め、訟獄を断ずる、卒に皆公に由って決す。公の当時に在るは、殆ど唐人の所謂内相なる者にして、天下々然として其の風釆を想聞し、其の美沢を被らんことを望む。而して文廟奄に万姓を棄て、公の議定する所、既に成る者は壊れ、将に成らんとする者は廃す。文廟にして其の年を永くし、公果して其の材を展ぶるを得ば、則ち百代当に行ふべきの礼を定め、歴世未だ挙がらざるの政を挙げ、以て光を邦家に増す者、将に是に於てか在らんとす。豈独り一時を済ふのみにして止らんや。然り而して、一旦差違すること斯くの如し。吁、命なるかな。
余常に公の事を称するを楽しむ。惜いかな史籍備らず、其の詳を究むるに由なし。然れども、公の筆記と、夫(か)の当時公の道を慕ふ者の録する所とを読めば、其平生の志行、朝に立つの大節、亦以て其の概を知るに足らん。
正徳元年の冬、韓、使を遣はして来り聘す。文廟、公を典礼に命ず。初め我れ韓と好しみを修むる、時草昧に属し、接の礼、未だ講究するに遑あらず。而して韓又其の武の我に若かざるを知るや、毎に凌ぐに文を以てせんと欲し、往々にして不の意を聘儀に寓す。然り而して我改め且(旦)問はず、且に百年ならんとす。公是に於て極力匡正す。賜饗の日に及んで宗室三公の接伴を停む。彼則ち服するを肯んぜず。挙朝、茫として措く所無し。公独り初めの議を持し、論諭刻を移す。辞理明辯、彼争ふ能はず。事乃ち定る。辞見畢るに至って彼又、復書の内、其の主七世の祖の諱を犯すを難じ、之を改めんと請ふ。公則ち詰るに、来書の既に我が主祖の諱を犯すを以てし、彼をして先づ改めしめて、然る後に改む。凡そ公の議する所、一として行はれざる靡し。彼辞皆屈す。後公人に語って曰く、吾命を奉じて聘事を管し、国体を存せんことを誓ふ。不幸にして事れなば、吾豈遂に生きんやと。 |
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注釈
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