奨掖訓誨、其の心力を尽す。王漸く長じ、才文武を兼ね、雄略人に絶す。非立(ヒリツプス)弑に遭ひ、王乃ち位を継ぐ。時に年二十一歳なり。
希臘(ギリシヤ)の列国之を聞き、各々公使を遣はして、哥林多(コリンテ)に会し、王を推して盟主と為し、其の指令を受くること、一に非立(ヒリツプス)の故事の如くす。王偶々事ありて外に出づ。多拉西(トラシー)・義(イ)(儀ともあり)爾里利(ルリリー)其の亡きを時とし、王に叛く。王即ち回り、伐って之を平らぐ。尋いで地品(地品彼羅比大(テベペロピダス))も亦叛く。王又攻めて其の府城を拔き、其の渠魁を戮す。是に於て希臘(ギリシヤ)の列国、敢へて王に抗ずる者無し。王遂に非立(ヒリツプス)の未だ竟(を)へざるの志を成さんと欲す。
三百三十四年、安池巴得(アンチパトル)を国に留めて、専ら内政を管し、兼ねて希臘(ギリシヤ)の列国を監せしめ、自ら精兵三万四千五百を将ゐて匪爾力斯邦多(ヘルレスポント)を踰え、波斯(ペルシヤ)を伐つ。波斯(ペルシヤ)兵を出して之を禦ぐ。其の将曼嫩(メムノン)画策頗る()に中つ。然り而して波斯(ペルシヤ)人用ふる能はず。王と牙拉尼哥斯(カラニキユス)河上に戦ひ、敗れて走る。沙而地斯(サルヂス)・埃匪塞(ユヘセ)の諸府、亦皆風を望んで迎へ降る。王乃ち長駆して以て地を略せんと欲して、其の衆の猶郷土を恋ひ、心志固まらざるがごときを患ふ。則ち令を将吏に下し、輜重の船隻を除くの外、有らゆる戦艦悉く毀壊を行ひ、進んで発里那修(ハリカルナシユス)に至り、大いに其の城を攻めて、之を拔く。遂に小亜細亜の地を収め、達烏廬斯連山(タウリユスグベクテ)に至る。曼嫩(メムノン)、王の懸軍深く入るを窺ひて曰く、是れ以て乗ずべきなりと。乃ち舟師を以て、埃日以斯海(エヂーセゼー)の諸島を攻めて、之を取り、因って勁兵を以て背後より王を襲はんと欲す。而して謀未だ行ふに及ばざるに、俄かに病んで死す。小亜細亜の諸侯皆遂に王に降る。奔多(ポンシユス)王覓的里達(ミトリタデス)亦兵を以て従はんと請ふ。是の時に当って曼嫩(メムノン)をして死せざらしめば、則ち王も亦岌々乎として危し。其の死するや、人以って天幸となす。王乃更に兵を進めて、加里(ガリー)・利西(リシー)・巴摩比里(パムピリー)・比西日(ピシヂー)・普里日(ブリヂー)を過ぎて、西里利(シリリー)に向ひ、韃而路士(タルシユス)に至る。疾有りて甚だ劇し。侍医非立(ヒリツプス)之を療す。乃ちゆるを得たり。
三百三十三年波斯(ペルシヤ)王大流士(タリユース)第三、王の疾ひを聞き、六十万の兵を将ゐて来り戦ふ。王壱斯修斯(イスシユス)河上に邀撃して、大いに之を敗り、大流士(タリユース)の母妃及び諸女を擒にし、金帛器械を獲ること其の数を知らず。大流士(タリユース)走す。王棄てて追はず、転じて海に沿うて進み、遞々西里亜、巴力士池那(パレスチナ)、布尼西(ブーニシー)を降す。独り布尼西(ブーニシー)部内の新池路斯(ニユーチリユス)のみ固守して降らず。王之を攻むること七月にして、乃ち之を拔く。遂に麦西(ギプテ)を攻めて之を降す。是より先、麦西(ギプテ)久しく波斯(ペルシヤ)の属部と為り、其の虐政に苦しむ。王乃ち煩苛を除いて、恩恵を施し、旧礼を復し、教法を崇び、以て人心を安んず。又其の部内の地中海岸に於て一地を相し府を此に創め、名づけて、亜勒散得黎亜(アレキサンドリア)と曰ふ。蓋し其の名を取れるなり。此の地東西の衝に当る。故に天下を経理するに於て、極めて便利と為す。忽ち又東西学士の輻湊する所と為る。是に由って希臘(ギリシア)文字、以て東方諸国に播するを得、東方諸国の学も、亦以て希臘(ギリシア)に伝はるを得たりと云ふ。
麦西(ギプテ)既に定まる。王又兵を将ゐて亜細亜に赴く。三百三十一年を以て、大流士(タリユース)の百万の兵と亜基利(アスシリー)部内の亜爾皮拉(アルペラ)に戦って大いに之を敗る。
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注釈
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