殆ど大流士(タリユース)を獲んとす。大流士(タリユース)の馬駿なり。逸して走る。尋いで、巴古多利亜那(パクトリアナ)の留守白士蘇士(ベスシユス)の弑いする所と為る。王乃ち遞々波斯(ペルシヤ)の大府巴庇倫(バビロン)・蘇撒(シユサ)・百爾塞波里士(ペルセポリス)・埃古巴達那(エクパタナ)等を攻めて、之を陥(おとしい)る。悉く兵を置いて以て守る。又兵を進めて波斯(ペルシヤ)の東北の属地を略し、巴古多利亜那(パクトリアナ)に至り、大流士(タリユース)の屍の車上に横はり、刀瘢縦横にして、殆ど完膚無きを見て、涙を垂れて弔(吊)哭し、波斯(ペルシヤ)王の礼を以て、之を葬る。白士蘇士(ペスシユス)を捕へ、其の罪を徇(とな)へて、之を戮す。遂に是錫典(スセイテン)、索格日亜那(ソクヂアナ)を攻めて、之を降す。索格日亜那(ソクヂアナ)人に、阿幾西亜爾多斯(アキシーアルタス)なる者あり。独り命を拒んで降らず。王因って其の女羅幾沙尼((ロクサネー))を納る。乃ち降る。是の時に当って、波斯(ペルシヤ)の諸部、悉く已に王に帰し、地三洲に跨り、版図頗る広し。然れども王猶以て足れりと為さず。更に兵を進めて北印度地方を征服せんと欲す。初の印度(インジユス)、維達斯百斯(ヒタスペス)両河の間に国あり。其のの名を達西力士(タシシス)と曰ふ。維達斯百斯(ヒタスペス)河の東、又国あり。其のの名を波路士(ポリユス)と曰ふ。二人久しく相たり。是に於て達西力士(タシレス)款を王に送り、以て其の兵を引く。王の維達斯百斯(ヒタスペス)河を過ぐるや、波路斯(ポリユス)兵を出して、其の半渡を撃たんと欲す。王邀戦して之を破る。波路士(ポリユス)請うて曰く、若し降らば、何を以てか処せられんと。王曰く、封じて侯と為さんと。波路士(ポリユス)乃ち降る。因って姑く兵を駐めて以て休せり。
三百二十六年、進んで維巴西斯(ヒパシス)に至り、安額(ガンヂス)河を渡って東せんと欲す。是の時に当たって師出でて已に久しく、衆皆怨咨す。群臣因って諫めて曰く、本国の民を安んずるを務めずして、遠略を是れ事とす。恐らくは計に非ずと為さん。師を旋らすの便たるに若かずと。王已むを得ずして之に従ふ。火師総督尼亜爾孤斯(ネアルキユス)をして新建の戦艦を率ゐ、印度(インジユス)河の西岸に循って、以て下り、底格里斯(チグリス)の海門に向って還らしめ、自ら麾下の兵を帥ゐて、印度(インジユス)河の右岸に沿ひ、日独羅西(ゲトロシー)、加爾馬尼(カルマニー)を経て、蘇撤(シユサ)に至る。乃ち大流士(タリユース)の長女士達地拉を立てて妃と為す。其の儀物の盛備、曠古未だ聞かざる所なりと云ふ。既にして巴庇倫(バビロン)に至り、軍を此に駐め、波斯(ペルシヤ)及び印度の事務を経理す。希臘(ギリシヤ)の政化の、遍く波斯(ペルシヤ)の民を被はんことを欲す。則ち其の部内に於て、多く希臘(ギリシヤ)府を建つ。波斯(ペルシヤ)の民の己に親従せんことを欲す。則ち多く之を取って以て兵に充つ。或いは以て親衛と為すに至る。波斯(ペルシヤ)の民と、本国の民と、輯睦親和して、相違する無からんことを欲す。則ち本国の民をして、波斯(ペルシヤ)の女を娶らしむ。向(さき)に其の羅幾沙尼(ロクサネ)、士達池拉(スタチラ(ス))を娶りしは、蓋し預め之が倡を為すなり。王、規画区処、共の心力を尽す。事の成る未だ半ばならざるに、疾ひ暴かに起りて以て卒す。実に三百二十三年なり。享寿僅かに三十三。むるに金棺を以てし、亜勒散得(黎)亜(アレキサンドリア)府内の某寺に葬る。
王豁達大度なりと雖も、然れども性亦急にして、又飲酒を好み、喜怒往々にして常を失ふ。其の親臣巴爾墨尼阿(パルメニオ)、比羅答士(ピロタス)の若きは、持論合はざるを以て、西里多士(シリチユス)は其の短を議するを以て、皆誅せらる。是(ここ)を以て其の死するや、人思はず。而して又長子の以て其の業を継ぐに足る者無し。
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注釈
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