反って焉を改むれば、則ち清も亦以て師と為すべきなるかな。
虎、三たび書す。
象山先生曰く、文を作るに、此くの如くにして、始めて以て文たるべし。彼の有って益なく、無くして損なき者は、奚ぞ其れ文ならん。奚ぞ其れ文ならん。
三一、清英兵諸記の後に書す
漢土の海ある、元末明初(げんまつみんしよ)より始まる。其の最も著しき者は、明に嘉靖の倭あり、清に嘉慶の艇匪あり。道光の英夷に至って、其の惨蓋し極まれり。此の三者は大小強弱の勢、固より自ら異なれり。而して未だ嘗つて内奸の之に混じて以て其の毒を助けざる者あらざるなり。汪直、徐海(じょかい)の明に於ける。蔡牽(率)、朱濆の清に於ける、内奸を糾せて以て外と合して、内地を侵掠する者なり。英夷の清に於ける、漢奸を誘ひて以て間諜と為し、以て郷導と為し、以て駆使に供して、其の欲を伸す者なり。是に於て主客形を易へ、攻守勢を異にし、勝負の効、因って以て変ず。故に嘉靖の際、兪大、戚継光の将材を以て、力を竭して討剿(たうせう)し、前後数十年にして後、肩を息むるを獲たり。嘉慶の時亦将(しやう)、人(ひと)無く兵足らざるに非ず。惟々し難く、随って撲てば随って熾んに、十余年を経て後僅かに定まる。英夷に至っては、則ち将帥智に、軍卒精に、器械利に、其の算を得ること既に多くして、又内奸に因って以て其の略を広む。故に其の兵の加ふる所、を以て卵に投ずるが若く、清人鳥散魚潰し、之を敢へて拒ぐ莫く、和議して以て免かる。
向に嘉靖をして、汪直・徐海なく、嘉慶をして蔡牽・朱濆なく、道光をして又、漢奸の夷の用を為すこと無らかしめば、則ち倭艇匪、未だ必ずしも此くの如きの擾れに至らず。英の清を破る。豈亦此の如きの惨ならんや。然れば則ち内奸の患たる、又何如ぞや。
嗚呼、傑姦回の民、何の国にか之れ無からん。一旦変、瀕海に発し、敵誘ふに厚利を以てし、我に預防の策なくんば、則ち其の争ひ起りて乱と為ること、勢ひ必ず免れず。後の明清たる者、其れ戒めざる可けんや。
庚申、春晩、小林 虎書。
三二 帝鑑図説の後に書す
此の書は明の閣臣、張居正、意を講官に授けて、論述し、以て其の主に進めし所に係る。明史を按ずるに、隆慶六年三月、穆宗し、神宗立つ。時に年甫めて十歳、閣臣高拱及び居正、遺命を奉じて之を輔く。未だ幾ばくならざるに、居正、拱を逐ふて、自ら元輔と為る。神宗意を傾けて居正に聴く。居正慨然として天下を以て己(巳)が任と為す。 |