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稿本略註国訳求志洞遺稿 文 乾
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稿本略註国訳求志洞遺稿 詩 坤全
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小林虎三郎
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求志洞遺稿について
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凡例
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49.万国奇観の後序/50.南里山人の墓表 家翁に代る
余是に於てか、春風の侖に於ける注意亦深きを知る。
乃ち
を開いて対酌し、相共に欧州列邦の強弱盛衰(哀)の勢を
縦論し、
更の既に移り、寒さ益々烈しく、門前雪の積むこと数尺なるを覚えざるなり。既にして未だ幾年ならざるに、春風
下世せり。而して余の疾又滋々痼なり。
今茲、秋遂に医を訪ふて都に来れば、則ち
法、普と戦って
敗績し、侖、普に降り、且に
期年ならんとす。戦記陸続して
舶齎し、訳本も亦出づること多く、偶々一友人の宅に於て、侖、剣を解いて
普王に見ゆるの図を観る。意態
蕭索として殊に人をして悽然たらしむ。因って春風雪夜炉灰に画きしの時を回思すれば、恍として昨日の如し。乃ち之と記を読み図を観て、其の成敗利鈍の
る所を論ぜんと欲して、復得べからず。安んぞ余が涙の
然として
臆を沾さざるを得んや。
会々春風の弟、
白峰駿馬、海舟勝君に請うて将に此の書を刋せんとす。君既に之が序を為る。又余をして一言を題せしむ。夫れ此の書
述の意は、春風の自序、之を言って既に明らかなり。三英雄の事蹟に至っては、法るべく戒しむベき者は、則ち勝げて君の論ずること、又切にして尽せり。因って余独り区々悲慕の私を叙するのみ。之を巻尾に
くと云ふ。
明治辛未、重陽後二日。越後小林虎、東京の客舎に
す。
五〇、
南里山人の墓表 家翁に代る
南里山人没せり。既に葬る。其の子某泣いて来り請うて曰く、
先生の新潟(瀉)を治するや、亡
実に隷属と為り、知を受くる特に深し。今其の墓に表する、先生を舎いて誰にか敢へて請はん。
余亦潜然として涕下る。曰く、鳴呼、余の山人と、詩酒
徴逐せしは、已(巳)に二十年前に在り。一時の
遊、
石侃斎、高致遠の若きは、
墓木将に拱せんとす。而して山人今亦已(己)みぬ。吾又何の心あって、以て
筆
を秉(と)らんやと。
然れども子の之を請ふこと甚だ切なり。亦勉めて従はざるを得ず。
山人目清く眉長く、
胸次洒落、
筆札を善くす。少きより小吏と為り、勤敏等を踰ゆ。
々褒賞を蒙る。年
知命を過ぎて乃ち
致仕す。其の善くする所を以て、生徒に教授し、常に戸門を
む。山人視ること猶子弟のごとし。又極めて酒を嗜み、雪花風月、酒もて之を賞す。是非得失、酒もて之を一にす。凡そ三百六旬醒日あること靡し。
冥然として世を相忘れ、以て其の身を終ふ。之を夫の世途に奔走し、
営求して止むなく、
額常に蹙りて開かざる者に
視ふれば、未だ必ずしも
間なくんばあらず。
山人は富田氏、名は某、
の名は某、母は小守氏。寛政元年酉、某月某日某生るるの
辰なり。安政五年戊午、正月十二日は其の没するの日なり。新潟寺坊本覚寺は其の墓の在る所なり。長岡小林某之を表する者なり。
注釈
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49.万国奇観の後序13-20
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49.万国奇観の後序21-28
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50.南里山人の墓表 家翁に代る1-10
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50.南里山人の墓表 家翁に代る11-17
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