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稿本略註国訳求志洞遺稿 文 乾
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稿本略註国訳求志洞遺稿 詩 坤全
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小林虎三郎
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求志洞遺稿について
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53.翻刋徳国学校論略の序/54.山田先生に呈す/55.田中春回に与ふ
蓋し其の国学校最も盛んにして、教育最も行はれ、欧米各国の推す所と為る、日已に久し。故に其の民
々強く、国
々強きの効此くの如し。
而して此の書、簡なりと雖も、亦以て其の教学の規模則例の概を観るに足る。則ち凡そ教育を以て職と為す者、最も
覈(覆)にせざるべからず。然れども其の齎らす所猶尠く、伝播未だ広からず。是れ則ち憾むべし。
余因って更に校訂し、
梓に鐫りて以て之を
公溥す。蓋し亦強民強国の基礎を定むるに於いて万一の補あらんと欲すとしか云ふ。
紀元二千五百三十四年、七月
下澣。越後 病翁 小林 虎、東京居る所の求志楼に
す。
注 この「飜刋刊徳国学校論略(明治七年七月)」に、「病翁小林虎」と
書したるは異数のことに属す。(「小学国史(明治六年四月)」の見返しにも「病翁小林虎編輯」とあり)
山本有三著「米百俵」の「そえがき」によれば、松下鉄蔵翁の調べでは戸籍簿原本には明治四年七月十七日に小林虎三郎を病翁と改名せる旨が載っていたとのこと。
又病翁が明治四年七月二十七日付で戸之衛宛に出した書簡には、「小生近日病翁と改名致し候。乍序申上候」と追伸してある。
五四、
山田先生に呈す
虎謹んで再拝し、山田先生の座前に白す。外甥
小金井権三郎、来り承はるに、帰山の後、旧に依って
清穆、教を乞ふ者、日に滋々衆しと。甚だ
瞻企を慰む。東に在るの日、
々光顧を賜ひ、感銘特に深し。但々虎、
病痾沈痼、疲憊益々甚しく、更に旧聞新知を取って、思考論弁し、以て
裁正を乞ふ能はざるのみ。高文、垂示を蒙り、当に速かに拝閲完璧すべきに、
稽緩此に至る。
踈慢の極、其れ之を何とか謂はん。是れ畢竟(章)病痾の致す所、伏して惟ふ、先生江海の量、幸に恕亮を賜はらんことを。
に便風を得て、乃ち還納す。査収を請ふ。維れ時、炎威
(あぶ)るが如し。千万保愛し、以て
稠人の望に副はんこと、
渇祈の至り堪へず。不備。虎 頓首再拝。
五五、田中春回(たなかしゆんくわい)に与ふ
疇昔、小林生来り、足下の
履況を詳かにす。
休裕、中学校に在り、生徒を教督すと。極めて
緬想を慰む。手書を蒙って
存問せられ、併せて佳菓の
を辱うす。
感荷殊に劇し。謝する所を知らず。
に
外甥小金井良精の帰省するに会ひ、乃ち付して此の書を呈し、近刻徳国学校論略一部、聊か
木桃の報に代ふ。卻(しりぞ)(郤)けらるることなくんば幸甚なり。
僕、
風湿を患ふること既に二拾年。昨春来更に一症を発し、
肝臓時時劇痛し、食機振はず、精神沈鬱し、皮膚発疹し、奇癢殆ど忍ぶべからず。因って夏に至って下谷医院に入り、日耳曼医(ぜるまんい)、
兒尼韭氏の治を受く。秋に及んで伊豆の熱海温泉に遊浴し、冬に入って還る。更に治を、東洋佐々木氏に乞ひ、前後
調摂に力を尽くす。病患増進の勢、
遏止するを得たるに似たりと雖も、確然たる全癒の功に至っては、則ち茫として期すべからず。読書する能はず、飲酒する能はず。深花吟月、訪友接客、皆意の如くするを得ず。一室に仰臥し、苦悶の外、復、他事なし。惟々自ら憫笑するのみ。
故を以て親戚朋友の際、殆ど書信を絶つ。向に当に速かに
裁報して謝を致すべきに、
因仍、今日に及ぶ者は、正に此が為めなり。
注釈
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53.翻刋徳国学校論略の序18-21
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54.山田先生に呈す
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55.田中春回に与ふ1-10
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55.田中春回に与ふ11-16
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