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6.小林寒翠翁略伝
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其の帰省するに於て、書して以て之を贈る。」と。象山の翁を愛する、以て知る可きのみ。翁の郷に帰るや、門を閉ぢて注釈27居す。幾ばくも無くして病を発し、頗る難治の症に罹る。爾来百事を抛卻(郤)し、唯薬炉と相親しむのみ。病間図書を左右にし、詩文を作為し、独り世態を慷慨するのみ。既にして象山注釈28松代に禁錮せられ、多年世事に関せず。而して天下囂然として殆ど弊船に坐するが如し。従って、諸侯文武の士を徴招し、禁錮を解いて皆之を登用す。
 元治元年、注釈29将軍京師に在り。象山を徴して国政を咨詢す。象山前途の艱難なるを知り、将に其の子、格次郎を翁に託せんとす。幼弱なるを以て、携へて京師に到る。時に諸藩の壮士多く京洛に集る。異議紛紛として互に相讎視(あひしうし)す。象山亦群小の悪(にく)む所と為り、終に注釈30刺客の手にる。既にして注釈31輦下擾乱(ぜうらん)し、尋いで征長の拳あり。明治維新の際に及び、幕府の党と官軍と々諸国に戦ふ。而して越後奥羽最も其の衝に当る。
 是より前、長岡藩中、翁と名声を馳する者、鵜殿団次郎・河井継之助・川島億二郎等あり。鵜殿は注釈32幕下に徴されて、目付役と為り、勝安房等と共に幕議に与る。故を以て常には藩に在らず。河井、川島、翁と共に藩政を議し、迭に其の論を上下す。然れども翁は多く病床に在るを以て、持論を施行すること能はず。川島も亦翁と意を同じうす。独り河井のみ之に反す。且(旦)才辯(辨)衆を服するを以て、遂に顕職に昇り、藩政を掌握す。官軍越に臨むに方り、藩師方針を誤る者は皆河井の意に出づ。多く壮士を亡ひ、其の身も亦戦没す。慨せざるべけんや。是の時に方り翁々河井の失政を論ず。然れども病に臥して其の説を達する能はず。徒に天を仰いで浩嘆するのみ。蓋し河井の藩政を執るや、権力一時に盛んなりと雖も、学力道徳に至っては、翁に及ばざること遠し。故を以て平素翁を忌避して其の説を用ひず。翁も亦其の説の容れられざるを知り、敢えて藩政に与らず、王政復古の日に至る。唯々病を養って一室に閉居するのみ。事平ぎて後、藩士多く亡(う)せ、頗る困難に陥る。
 明治二年、藩主牧野忠毅君、翁を起して政に与らしむ。川島及び同志の諸士、荐(しき)りに職に就かんことを勧む。翁已むことを得ず、遂に疾を力(つと)めて之に応ず。以て藩の大参事に任ず。常に家に在りて文武の政務を統督す。尋いで朝廷翁を徴(め)して、注釈33文部省の博士に拳ぐ。翁病を以て之を辞す。蓋し朝臣中翁を知る者ありて、之を薦挙(せんきよ)すればなり。維新前後、戦功を以て朝に事ふる者多しと雖も、学問道徳を以て徴さるる者、亦甚だ多からず。其の身事へずと雖も、名誉も亦大なりと謂ふべし。
 明治四年の秋、病少しく緩やかなるを以て、東京に到る。

注釈

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